立野純三(たての・じゅんぞう)
株式会社ユニオン代表取締役社長
1947年生まれ。1970年 甲南大学法学部卒業。1970年 青木建設入社、
1973年(株)ユニオン入社。1990年同社代表取締役社長。その他公職として、
公益財団法人ユニオン造形文化財団 理事長、公益財団法人 大阪産業局理事長、
大阪商工会議所 副会頭等を務める。
五十嵐 淳(いがらし・じゅん)
五十嵐淳設計事務所代表
1970年生まれ。1997年に五十嵐淳建築設計事務所を設立。
北海道の風土や気候条件、風景との共生を前提としながらも、建築の普遍的な価値を問いかけ、
建築単体の存在を超えて建築のはじまりの姿にまで思いを馳せながら、
常に「人間の原初的な居場所」という「状態」を模索し続けている。
主な受賞に第19回吉岡賞、第21回JIA新人賞、2018年日本建築学会賞教育賞、
大阪現代演劇祭仮設劇場コンペ最優秀賞、BARBARA CAPPOCHIN ビエンナーレ国際建築賞
グランプリ(イタリア)、AR AWARDS2006(イギリス)、グッドデザイン賞、
日本建築学会北海道建築賞、Dedaro Minosse 国際建築賞審査員特別賞(イタリア)など他多数。
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立野
先生は北海道の生まれですね。
五十嵐
はい。
立野
私は札幌にも何度か訪れていますし、先生の地元近くの網走にも訪れたことがあります。
やはり、便利な都会で刺激なく幼少期を過ごすよりも、先生の地元のような自然が豊かな場所で
生まれ育ったという原体験があるほうが、建築家としてはいいのではないでしょうか。
五十嵐
子どもは生まれ育った場所で刺激の受け方は違うと思いますから、一概にはなんともいえません。
僕の地元は佐呂間町ですが、その中でも市街地で生まれ育ちました。
だから、記憶の中では建物が多かったので路地で遊んだり、たまたま神社がすぐ隣にあったので境内で遊んだりもしました。
親も過保護ではありませんでしたから、川や山にもよく行きましたよ。
立野
ということは、都会の良さも自然の良さも感じられる場所だったのですね。
五十嵐
そうなのかもしれません。
立野
私は小さい頃、大阪の豊中で育ちまして。当時の子どもは家の中で遊ぶことはほとんどなくて、外で自然と戯れて遊ぶようなことが多かった。
今の子ども達と比べるとかなり違うなと感じます。
五十嵐
今の子ども達とは遊び方が違いますよね。
立野
ところで、先生のお祖父様は、大工さんだったと伺いました。
五十嵐
そうなんです。当時「工兵」といって、戦地に宿舎や橋をつくったりしていたと祖父から聞きました。
その後、どういう経緯かわかりませんが、佐呂間町にたどり着いて工務店を始めたみたいです。
立野
環境の違いはあれ、安藤さん(安藤忠雄氏)は家の近くに建築現場があって、そこから建築に興味を持ち始めたといいますし、
五十嵐先生も身近にそういった建築に関わる場所があったから建築家という職業に興味を持ったのでしょうか?
五十嵐
祖父の工務店が身近にあったことの影響は受けているかもしれません。昔は職人さんが工務店に住み込んでいたんですよ。
自宅には猫もいっぱいいたし、犬もいた。子どもだった僕にはとても賑やかに映っていて、
そういった環境で祖父が働いている姿を見て、楽しそうだと感じていました。
立野
確かに昔は職人さんに限らず、住み込みで修行している方も多かった。お祖父様は住宅をつくられていたのですか。
五十嵐
とにかく木でつくれるものはなんでもつくって売っていたと聞きました。
雪国ですから、犬ゾリとかも木を曲げてつくったりしていたみたいで。厳しい時代だったのでしょうが、田舎町でも活気があったようです。
立野
先生は高校卒業後、札幌にある建築の専門学校に入学されたのですよね。先ほど話されたようなご自身の環境から、建築に興味を持たれたと。
五十嵐
はい。僕も審査員として参加させていただいた「Under 35 Architects exhibition 2023」の、
他の審査員の皆さんの経歴を見るとエリートコースですから、僕の出自は少し異質かもしれません(笑)。
立野
でも私はね、一般的な建築家になるためのステップを踏んでいない方も、この業界には必要だと思っているのですよ。
建築はその人が持つ思想が反映されうるものですから、様々な個性が活かされるべき業界です。安藤さんの経歴もそうですし、
コルビュジエだって独学の末、世界的な建築家になった。そういった人が建築の新たな道を切り拓いてくれるのだと思います。
五十嵐
確かにそうかもしれませんね。
立野
もちろん王道と呼ばれる道を歩んでこられた先生方も素晴らしいですがね。
様々な人が混在しているから、建築業界は盛り上がるのだと思いますよ。
五十嵐
僕はエリートコースの方々が羨ましいですがね(笑)。
立野
先生は妹島さん(妹島和世氏)も受賞されている、「吉岡賞」を獲られているのですね。
五十嵐
はい。2000年に完成した「矩形の森」という作品で受賞しました。この作品は自邸なんです。
立野
ほう。ご自宅ですか。
五十嵐
はい。30歳の時にできたものです。
立野
この作品は賞を狙ってつくられたのですか?
五十嵐
当時は、いい物をつくらないと誰も相手にしてくれないという状況でしたから、自分なりに賞の獲得を目指して、本気で設計しました。
立野
「吉岡賞」は歴史ある賞ですから、目指して獲得されたのは素晴らしいですね。
五十嵐
ありがとうございます
立野
賞を獲得した後は順調にお仕事も巡ってくるようになったのではないですか?
五十嵐
実はそんなこともなくて。受賞後も暇で、たまにいただくお仕事を一生懸命にするという感じでした。ただ、人と会う機会は多くなりましたね。
立野
同志のような方にも出会えたのではないですか?
五十嵐
田根君(田根剛氏)、藤本さん(藤本壮介氏)には31歳くらいに出会いました。
立野
友人であり、ライバルみたいな存在ですか?
五十嵐
いえ、彼らは優秀すぎて別次元の存在ですよ。僕とはまったく違う建築をつくるので、いつも遠くから見ている感じです(笑)。
立野
五十嵐先生もですが、田根さんも藤本さんも日本を代表する建築家です。五十嵐先生と藤本さんは歳が近いですが、田根さんは少し年代が違いますよね。
五十嵐
そうですね。田根君が主催した卒業設計の講評会で僕と藤本さんが審査員で、「器用な人だな」と感じたことは覚えていますね。その後、田根君は藤本さんの事務所にオープンデスクかインターンに行って、その後海外に留学されたと伺っています。
立野
田根さんは今も海外で活躍されていますね。先生は北海道で活動されていますが、東京や海外で事務所をされるなどは考えておられるのですか。
五十嵐
まったく考えていませんね。東京に住んだことがありませんし、ましてやそこに仕事があるわけでもないので。仕事があることを前提に、いただいた仕事をじっくりとできる場所があることが僕にとっては重要なんです。事務所の近くでお仕事をいただけるのが理想的ですね。現場にも頻繁に行けますし。
立野
確かに先生の作品を見ると、クライアントと真摯に向き合っていることが伺えます。
立野
今後、建築業界はどのようになっていくのでしょうか?
五十嵐
どんどん状況は変わっていくと思います。全国的な傾向かどうかはわからないのですが、北海道は他の地域と比べるとサラリーマンの平均年収が少ないので、銀行の融資額も当然少なくなりますから、中小企業に勤めている人で借り入れ可能な額が3,000万円ほど。そうなると北海道はいくら土地代が他と比べて安いとはいえ、1,000万円で土地を購入したと仮定すると、残りの2,000万円で家が建つかというと厳しいので、建売住宅を購入するかマンション購入という流れが自然と増えていくかと思います。
立野
なるほど。北海道のニセコなんかは海外の人も増えてきているようですね。実はこの前、『エスコンフィールドHOKKAIDO』に訪れました。
五十嵐
あ、北広島市の。
立野
はい。あの周辺は都市開発が進んでいますね。
五十嵐
そうですね。
立野
エスコンフィールドという球場自体も、少し造りが変わっていて面白い建物でした。先生の作品も従来にはなかったものを上手く取り入れて住宅などもつくられていますよね。
五十嵐
ありがとうございます。住宅に関しては「住宅」という感覚でつくっていないといいますか、住みやすいのだけれども、常識や習慣に捉われない家をつくりたいと考えていて、子どもの頃からいわゆる常識にとらわれるのがすごく嫌だったんです。
立野
私も従業員に日々伝えているのですが、新しいことに挑戦しようと。相手に感動を与えることが大切ですし、新しいことに挑戦しているから興味を持ってもらえる。同じことをくりかえしていたらお客様に見てもらう製品がいつかなくなってしまいます。
五十嵐
なるほど。
立野
先ほどの話を聞いていて、先生も似た気持ちを持っているのではないかと感じました。
五十嵐
僕は子どもの頃から、学校の授業の内容とか、いつからこれは常識になったのだろうとか、疑問は常に持っていました。世の中ってある意味“宗教”みたいなもので、小さな宗教があちこちに点在しています。会社も一つの宗教だと思いますし、今の子どもはテレビよりもYouTubeを見ているけれども、誰も知らないようなユーチューバーでもその子どもにとっては神みたいな存在になっていたりします。
立野
確かに。
五十嵐
そういった小さな宗教が集まっている社会ってすごく複雑なんですよね。地球上に霊長類が誕生してから1億年ほどですが、この長い時間の中で、そういった思想が複雑に積み重なって現在に至るわけです。その複雑さをすべて把握しながら、何かを考えてつくるということは大変だと思いつつも、常に思考の糸を切らさずに巡らせないといけなくて。一方で歴史連環や習慣などと距離を取りたいと思っています。
立野
と、言いますと?
五十嵐
例えば、アジア圏の人の中には、宗教的に食肉をタブー視している人々がいますよね。その信仰はもしかしたら、開祖した人の何らかの思惑により、人々に食べさせたくないから食肉の禁止を強制した可能性だってあるわけです。宗教を信仰することは心の拠り所という側面もあるので必要だと思いますから、人それぞれ生き方があっていいのですが、時代に合わせて変化することも必要だと思います。ただ、変化するものによっては社会の構図が崩れてしまう可能性があるので、実際には変化することは難しいのかもしれません。
立野
面白いですね。建築は、時代ごとに変化している部分はあるのではないですか?
五十嵐
全然変わってないと思います。合理的になったりテクノロジーを活用したりしているけれども、本質的なものは変わっていないと思います。
立野
少し話が過去に戻りますが、1970年に大阪万博が開催されました。当時、各企業が万博を通して、チャレンジングな建築資材を数多く開発しました。今度の25年万博では、SDGsも加味しながら進めなければならないので再生可能な建築資材、主に木材を使ったものが非常に多く見受けられます。なぜもっと次の世代に向けて、新たな素材をアピールしないのかと疑問に感じているのですよ。昔ほどチャレンジが活発に行われなかったことが少し残念です。
五十嵐
同感です。
立野
国際的な万博で先進的なことを謳っている割には、先生がおっしゃるように建築そのものが変わっていないのかもしれませんね。
五十嵐
確かに現時点で物足りなさを感じますね。1970年の大阪万博を僕は体験できていないのであくまで想像ですが、未来を示唆するものを創出していましたよね。おそらく2025年の大阪万博では、未来を大きく感じることはできないでしょう。それが今の建築の限界なのかもしれません。
立野
ヨーロッパの企業は環境問題に対して非常にシビアに取り組んでいて、面白い発表などがニュースに取り上げられているのをよく目にします。欧米諸国は時代の流れに乗って新たなことをしているように感じます。
五十嵐
特にヨーロッパの自動車産業ではEV化が進んで、ガソリンの値段も日本と比べると非常に高く、ガソリン車が淘汰されています。そんな状況下になっても、車そのものの議論にならないのはすごく興味深いなと。それを議論せずにサスティナビリティの話をされても、説得力がないように感じます。
立野
確かに、車そのものの議論には至っていない印象です。
五十嵐
そうですよね。車は大体5人乗りですけど、日常的に利用するシーンを思い浮かべると、乗車している人は1人か2人です。それなのに、車体は大きい。この背景には、大きい車を所有していることがステータスになるという価値観が含まれてくるんですよ。車もいろんなデザインがあるし、無駄にスピードが出るものもあるわけです。
立野
そうですね。
五十嵐
改めて考えると、その機能や見た目は必要ないですよね。車を1台駐車するスペースがあれば電動キックボードを30台ほど停められます。車と比較すると、環境にとってはいいに決まっています。そういった議論が出ないのが人類の歴史連環の現れで、ある意味その“つまらなさ”を僕はあらゆるものに対して感じていて、建築業界に対しても似たような気持ちがあるのだと思います。でも、この問題は生きている間にどうもならないよな、と。
立野
確かに根本を見つめ直すことは大切です。先ほど先生は「建築は変わっていない」と話されていましたが、北海道は昔、水が凍ってしまうなど様々な問題があったために、冬は建築ができませんでしたよね。
五十嵐
はい。
立野
冬も作業ができるようになったのは、技術が少し進んでいるからではないですか?
五十嵐
冬の間も稼がなくてはならないという現実があるので、合理的に仕事をするようになりました。木造や鉄骨の躯体工事は寒くてもできますから、水が凍らない季節にコンクリート基礎工事などを済ませて対策をしています。北海道では通常、4月着工か秋に着工。4月に着工すると8月くらいに完成、もしくは9月着工で3月に完成。このサイクルが定番です。なので、この時期の職人さんのリソース確保が大変です。みんな忙しくて。
立野
職人さんをどう維持していくかということも問題ですよね。
五十嵐
そうです。これも正しく進めていく必要があって、職人不足になった時、みんなが真っ先に考えるのは機械化や合理化についてです。なぜか「職人を育てる学校をつくろう」という方向に議論が進まないんですよ。人がいなくても建築がつくれる方向に思考が進む。建築は人がいないとつくることができませんし、人間のためにさまざまな産業が存在するのに、人を使わずに社会を動かそうとする方向にいってしまう。この感覚が、ズレているなと思いますね。
立野
おっしゃる通りです。我々の仕事も、コンピューターでの製造やオートメーションが進んでいますが、やはり職人の手作業が非常に重要です。職人がいなくなると無機質なドアハンドルができてしまうし、そのハンドルが建築に付属しても、なんとなく味気なくなってしまう。
五十嵐
ハウスメーカーの住宅は、とにかくクレームが出ないようにシステム化して、現場が使うパーツや素材なんかも既製品を使用します。彼らはノークレームが目標だから、手仕事の本来のよさが逆に扱いにくいものとして捉えているのでしょう。コストの問題もありますし。
立野
多少コストが高くても、デザイン性がいいとか、ものづくりの背景に感動したとか、そういった基準で選んでもいいと思うのですがね。
五十嵐
少し話が変わりますが、僕は安藤さんがきっかけで建築家を目指しました。安藤さんが世界的なった理由の一つは、建築の品質が理由なのではないかと想像しています。
立野
ほう。
五十嵐
安藤さんに建築依頼をすると、確かな品質の建築を提供してくれる。それをクライアントは初めから理解しているのですよ。デザインに関しては、要望をもちろん伝えた上で、どんなデザインになろうともいい品質の建築が提供される。そんな安心感があるから安藤さんの元にたくさんの建築依頼がきたのではないでしょうか。
立野
デザインも素晴らしいですが、安藤さんは仕事を通して信頼感も獲得し続けていたのでしょうね。
五十嵐
上海に訪れたときに現地のディベロッパーが話していたのは、やはり安藤さんの品質を高く評価していたのですよ。事務所の経営体制もしっかりしているし、連絡するとすぐに返事をくれるし、安心だと言うわけです。つまり、当たり前のことを当たり前にできたり、クライアントと真摯に向き合う姿勢が建築家にとって大切だと思います。
立野
20年ほど前、マンハッタンを訪れました。当時の街並みは見どころが多くて、建物それぞれに個性がありました。しかし今は、ニューヨークも似たような建築が増えてきて大きな変化はない。少し退屈に感じます。
五十嵐
ほとんどのクライアントさんは安心感を求められるので、出来上がりが想像できたり、それを再現できるところに依頼することが多いと思います。昔のニューヨークでは、ビルのオーナーたちが建築家に対して「オーナーのシンボルをつくれ」と依頼していたようです。そういった依頼があって競い合うように建築がつくられたので、個性豊かな建築物が自然と生まれたのでしょうね。
立野
今はそういった注文をする人がいなくなってしまったと。
五十嵐
少なくなったのではないでしょうか。
立野
阪神淡路大震災が起きて、復興した街を見ると、建築はどれも似たようなものばかりです。震災復興という背景もありますから、安心で安全な住宅を目指したのでしょう。ですから、似たような住宅ばかりになるのは仕方ありません。しかし、街並みは味気なくなってしまいますよね。昔は日本らしい家屋も多かったですから。
五十嵐
我々日本人から見るとそう思うかもしれません。ただ、海外の人から見ると、それが日本らしさというか、逆に新鮮に映ることもあって。それはそれで、震災後のその土地の建築の特徴だと捉えることもできますからね。
立野
なるほど。建築もそうですが、100年、200年使っていただけるものをつくるとか、自然にあるものをそのまま使って、経年変化を楽しんでいただければと思いますね。私たちもかつて、真鍮のレバーをつくってクリアな塗装を施した製品をつくったことがあります。使い続けてその塗装が剥げてくると味が出てくる。そういった変化を楽しんでいただけるようになればなと思いますね。
五十嵐
真鍮のレバーですか。いい雰囲気を醸し出しそうですね。
立野
ありがとうございます。あと、日本の住宅に感じることがもう一つあります。先日、知り合いの医者と話をしていたのですが、今の住宅はユニバーサルデザインが主流になりつつあります。老人がそういったところに住むと、すり足になっていくんです。その生活が当たり前になってしまうと、外に出るとすべてがフラットではないので必ず躓いてしまう。ユニバーサルデザインというものが逆に、社会生活をしづらくしているとも考えられます。だから、住宅の中にあえて足をあげるきっかけをつくるとか、そんな家づくりも必要ではないかと思うのです。
五十嵐
確かにそうですね。
立野
あまりにも住み心地を追求しすぎて、人間の体が衰えるような住まいになっているのではないでしょうか。
五十嵐
いつからか社会全体が「非人間化」の方向に動いていますよね。アジアの都市に行くと未だ凸凹が多いですし。日本はそういった意味では多くの人にとって暮らしやすく、いい国なのかもしれません。
立野
開発が進んでいるJR大阪駅周辺ですが、現在建築中のマンションの価格は25億円ですよ。
五十嵐
一部屋がですか?それはすごいですね。
立野
東京では100億円を超える部屋もあるようですから、これも時代かなと思います。最近はゼネコンの力がすごく強くなっていますが、そのあたりはどう感じていますか?
五十嵐
ゼネコンの勢いは年々増していますし、デザインの能力も向上しているので、平凡な建築家は必要なくなってしまいますね。キャラクターが強いとか、建築のデザインが独創的な人しか、住宅以外の建築をしている建築家は生き残れなくなるのではないでしょうか。
立野
その可能性はありますよね。規模の大きい建築を手掛けている先生と話すと、どれだけデザインにこだわってクライアントを納得させたとしても現場で覆ってしまうようです。コスト面やオーナーの意向などさまざまな要因で構想から外れてしまうことが多いみたいで。長い目で見て、社会や街にとってどうすることが一番いいのかを模索し、選択いただきたいですね。
五十嵐
そうですね。
立野
昔の建築家は、インテリアも自分で選定されていましたよね。
五十嵐
はい、現在と違う社会背景の時代が羨ましいです。スイッチのパネルや照明器具、細やかなものをすべてオリジナルからつくるわけですよね。もっと言うと、つくろうと思ったらつくれた時代なんですね。町工場もたくさんあったし、職人もたくさん居て、安くつくることができた。だから、いろんな個性豊かな建築が実現できたわけで、単純に今は世界が変わって難しくなりました。
立野
はい。
五十嵐
コルビュジエやミースなど、巨匠と呼ばれる彼らが建築をつくっていた瞬間と、我々が建築をつくっている瞬間があまりにも違う。実際に彼らの建築を見にいくと感動するのですが、今と昔を単純に比べているとダメだと思います。だから建築を学生さんに教えるときに、昔の建築がつくられていた時の時代背景や社会情勢も同時に教えるべきです。
立野
昔許されたものが今では許されなくなっていますし、コンプライアンスも厳しくなっていますからね。万博のパビリオンもそうですが、オリンピックに際してのスタジアムなど、どうしても受賞歴が必要になるなど、ハードルが高いものも見受けられます。若い人が実際に建築を手掛けて実績をつくって、世界的な建築家になれるようになればいいのですが。
五十嵐
ほんとうに。
立野
先生が学生だった頃は、手書きで設計していたと思います。今思い返してよかったと感じますか?
五十嵐
頭で考えて、両手を動かしながら設計をするのはある意味スポーツみたいなものですから、フィジカルでモノを考えられたのはよかったのかもしれませんね。
立野
創造性を培う上で実際に手を動かすというのはいいことだと思うんです。
五十嵐
確かにそうかもしれませんね。
立野
コンピューターは便利ですが、テクノロジーが発展してある程度はコンピューターがやってくれますからね。若い時は、実際に自分の身体を使って何かをつくることは大切だと思います。
五十嵐
身体でつくらないと、本当にいいものはできないのかもしれませんね。
立野
はい。最後になりますが今後先生は、どのような建築を手がけられていくのでしょうか。
五十嵐
僕はこれからもいただいた仕事を楽しみたいですし、クライアントさんに満足いただきたいので、そこを突き詰めていきたいですね。関係者が多すぎるプロジェクトは少し僕の性格とあっていない部分もあって。クライアントとしっかり対峙して、突き詰めながら建築をつくっていきたいです。
立野
大規模な建築にはあまり興味がない?
五十嵐
大きな建築はつくってみたいと思いますが、本当に建築が好きな人や建築に詳しい人が他者の建築を見るときの評価基準は規模や大きさではないんです。建築のつくり手の意図や想いが現れているものに感動するので。建築を見にいくのも好きなのですが、とにかく大きいから感動するものでもなくて、小さな建築で涙を流すこともあります。僕はそういった建築をつくっていきたいですし、憧れますね。
立野
今後の活躍も期待しています。
(終了のお知らせ)
一同
ありがとうございました。
Planning:宮本 尚幸
Photography:北浦 佳祐
Writing:太洞 郁哉
Web Direction : 貴嶋 凌