立野純三(たての・じゅんぞう)
株式会社ユニオン代表取締役社長
1947年生まれ。1970年 甲南大学法学部卒業。1970年 青木建設入社、
1973年(株)ユニオン入社。1990年同社代表取締役社長。その他公職として、
公益財団法人ユニオン造形文化財団 理事長、公益財団法人 大阪産業局理事長、
大阪商工会議所 副会頭等を務める。
芦澤 竜一(あしざわ・りゅういち)
芦澤竜一建築設計事務所
1971年生まれ。1994年、早稲田大学理工学部建築学科を卒業後、
安藤忠雄建築研究所を経て、2001年にRAA/芦澤竜一建築設計事務所設立。
滋賀県立大学教授。建築と環境との関わりに重きを置き、
サステナブルな建築設計を幅広く手がける。
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立野
先生のご出身はどちらですか?
芦澤
神奈川の川崎で生まれて、横浜で育ちました。高校から東京に出てきまして、それから早稲田大学の建築学科入学。卒業後、安藤忠雄建築研究所に就職しました。
立野
東京で建築を学び、大阪の安藤さんの建築事務所で働かれていたと。大学ではどなたに 建築を教わっていたのでしょうか?
芦澤
大学では石山修武さんの研究室に所属して、厳しく指導いただきました。卒業後は、もともと建築家の先生のもとで働きたいと思っていたんです。それで建築を通して、社会に発信している安藤さんに興味を持つようになりました。
立野
先生が学生の頃は石山さんも安藤さんも、若手を育てることに熱心な時期でしたでしょうね。
芦澤
はい。私、キックボクシングをしていたのですよ。
立野
ほう。キックボクシングを。安藤さんもお若い頃、プロの格闘家でしたね。
芦澤
安藤さんもかつてはプロボクサーという事もあり興味を持っていただいて。学生の頃、安藤さんに「君は何をやってるねん」と聞かれ「早稲田大学で建築を学んでいます」と、一応 建築のポートフォリオを持って行ったのですが「そんなのいいから」と言われまして(笑)。
立野
(笑)。
芦澤
「建築の他に何やってるねん」という問いに「キックボクシングをしています」と話すと、目の色が変わられて(笑)。そんな話の流れから入所を認めていただきました。立野さんも安藤さんとお付き合いは長いですよね。
立野
ユニオンの製品を安藤先生の建築に採用いただいたのですが、安藤さんの建築についた写真を許可なしでカタログに載せてしまい「責任者今からこい」と言われ飛んでいきましてね(笑)。そこから何度かお仕事させていただきまして、今もお付き合いさせていただいています。今のユニオンがあるのは、安藤さんを始めとする建築家の先生方からオーダーを受けて技術を磨いてきたからだと感じます。先生はどれほどの期間、安藤さんのところで働かれていたのでしょう?
芦澤
6年です。
立野
その6年間は先生にとって良い経験だったのではないですか?その後独立されていらっしゃいますし。
芦澤
はい。さまざまなことを学ばせていただきました。『淡路夢舞台』のプロジェクトに関わらせていただいて、完成したら独立しようと決めていました。28~29歳の頃です。
立野
独立後は順調だったのでしょうか?
芦澤
いえ、独立当初、建築のプロジェクトは仕事としてほとんどありませんでした。展覧会の企画やコンペに参加することが多く、たまに小さな店舗の設計をさせていただくことがある程度でしたね。そこから徐々に仕事が増えてきまして、建築の仕事をメインにすることができるようになりました。
立野
淡路夢舞台も素晴らしい建築ですし、先生は個人邸も多く手がけられていますよね。どれも先生のキャリアが伺える素晴らしい物ばかりです。
芦澤
ありがとうございます。
立野
先生が手がけられてきた建築で何か印象に強く残っているものはありますか?
芦澤
初めて手がけた建築が、大阪豊中の集合住宅でした。従来の形式化されたワンルームマンションとは異なる集住モデルを目指しました。この敷地の北側には14階建てのマンションが建設されていたのですが、その他は長屋が多く南側には市場があり、開けた眺望が確保されている立地でした。
立野
ほう。
芦澤
廊下を南側に配置して、路地として位置付け、路地と連続して外土間、内土間、部屋という性格の異なるゾーンを設定しました。各ゾーンの間は連続した空間構成なのですが、引き戸や吊りパイプに掛ける可動壁を操作することによって、内部と外部の境界の強度を住民が決められるようにしました。このシステムによってコミュニケーションやプライバシー、眺望などを住民が調整することが可能です。
立野
集合住宅ですから、住民が自分のライフスタイルに合わせて調整できるのはメリットですね。
芦澤
ありがとうございます。このプロジェクトが独立後、最初の建築なので思い入れがあります。見た目はコンクリートとガラスと鉄の組み合わせが特徴的で。師匠の影響が表れているかもしれません(笑)。
立野
安藤先生も作品を多くつくる中で、作風が変わったタイミングがあったと思います。先生ご自身は作風に変化があったと思いますか?
芦澤
2007年に手がけた個人邸宅の設計が、今思えば作風が変化したタイミングかもしれません。残念ながら実現はしなかったのですが、9坪の土地に8階建ての建築をつくろうと。
立野
9坪ですか!それはかなりの狭小地ですね。
芦澤
その時は自然の樹木、植物の構造を建築に活かせないかと考えている時期でした。「人間も含めて、宇宙に存在するすべてのもの」という意味での自然の一部としての建築のあり方を模索していて、かなり実験的な要素もありました。
立野
8階建てとなると難易度が上がりそうですね。
芦澤
この敷地は狭小地ではあったのですが、与えられた条件から高さが確保できたため、平面的だけでなく断面的にも植物と人の居場所を融合した建築をつくろうとしました。空間は蔓のように絡み合いながら上昇する柱によって支えられていて、各フロアに土が盛られ、この地域で育ってきたさまざまな植物の種子を植えて、可能な限りの緑化を試みたのです。
立野
ほう。
芦澤
そして構造体となるスチールパイプはインフラの導管として機能させ、最小限の設備ラインを内蔵し各階に供給します。この建築は生活に必要なエネルギー源を都市インフラに依存するのではなく、太陽光や風力、雨水などの自然エネルギーを有効に利用して、樹木のようにエネルギーを循環させるシステムを持たせました。さらには外部と内部を分け隔てる固定した壁は一切なく、日本古来の障子やふすまなどの可変的な仕切りと同様、性能の異なる数種類の膜材によって外壁をつくろうと考えたのです。
立野
面白いプロジェクトですね。
芦澤
ただ、8階建ての建築なのにエレベーターがなく外階段だけで…(笑)。
立野
健康にはいいかもしれません(笑)。
芦澤
都市の最小限の敷地で、自然と人間と建築の関係を再考するプロジェクトだったのですが、土地の取得が上手くいかず流れてしまいました。その頃から自然環境と一体化した建築というのが私の中で一つのテーマになり、設計の方向性が変化していったプロジェクトといえます。
立野
確かに先生の今までの実績を見ていると、そのようなテーマが感じられます。
立野
住みやすさという点において、先生はどのように考えておられますか?
芦澤
実は先ほどお話しした豊中のマンションに12年間住んでいたんです。
立野
そうだったのですか。
芦澤
自分がつくった作品ですから住み方の見本と言いますか、自ら体験しないといけないと思い、実際に住んでみたんです。コンセプトとして自然の風を部屋の中に流そうと意識していて、冷暖房はつけずに暮らしていました。最上階だったのでとても暑かったんです。我慢大会みたいな感じで(笑)。
立野
(笑)。今は自然を感じられる家が求められていますから、そのような暮らしに憧れを抱きます。話が変わりますが、先生は建築だけでなく、さまざまな分野の勉強をされていますよね。その学びの姿勢や知識は、建築に活かそうと考えておられるのですか?
芦澤
建築のつくり方やデザインにさまざまな考え方を取り入れて、何か新しい建築ができないかと探っています。もともと日本の建築は自然の循環の一部だったと思うので、その循環をもう一度取り戻せないかと考えています。極力CO2を排出しない構法や製品を選択していきたいですね。
立野
先日、安井建築事務所の佐野社長と対談をしたのですが、ヨーロッパでは特に環境のことを考えてモノづくりをしているようです。日本もサスティナブルなモノづくりが今後重要になってくると思いますし、建築に関しても同じことが言えますよね。先生の作品はサスティナブルな思考が反映された建築をつくられていることが見てわかります。中には土壁を採用した建築物もあるとか。
芦澤
そうなんです。琵琶湖の『セトレマリーナびわ湖』や南大阪の住宅『南花田の墳』には土壁を採用しました。外壁に関しては雨水の浸食を防がなければならないのでセメントを少し混ぜています。工業化された仕上げ製品ではなく、地域で採取できる自然の素材を極力用いようと考え、同時に日本の伝統的技術を継承し、現代建築の中で発展できないかと模索し、土と左官に注目しています。
立野
私が小さい頃は数寄屋造りの住宅で暮らしていましたから、昔ながらの構法で作られた家は落ち着きます。空気も循環するつくりですし、健康面においてもメリットは多いように思います。人が暮らす住宅ですから便利さももちろん大切ですが、自然と共存するような人間的な暮らしも必要です。このような住宅づくりが先ほど申し上げた、サスティナブルな建築につながってくるのではないかと。
芦澤
わかります。私が今住んでるマンションの壁と天井に土を塗りました。身体も心も豊かになります。すごく気持ちがいいですよ。
立野
ほう。DIYができるマンションなのですね。
芦澤
中古の分譲マンションを購入したので自由にさせてもらっています。
立野
それはいいですね。
芦澤
私が住んでいるマンションは築50年くらいなのですが、団地や古くなっている建物を今後どのように改修していくかを考えていかなければなりません。耐震改修で構造的な課題を解決し、何か付加価値を与えて改修すればまた長く住むことができる建築に生まれ変わるはずです。
立野
最近では木の素材が改めて見直されてきています。もともと先生にはサスティナブルな考えがありますから、環境に優しい素材を使用するなど、自然との融合をテーマにした建造物ができるのですね。
芦澤
そうなのかもしれません。自然素材をいかに使うかを考えていますね。昔はコンクリートの構造材をよく使用していましたが、最近はまず木造でできないかを考えます。
芦澤
先日、アメリカで完成したプロジェクトがあります。企業の研究所なのですが、すべて木造で仕上げました。
立野
アメリカのどちらですか?
芦澤
ペンシルバニア州です。研究所周辺は、アメリカ郊外の典型的な箱型建築が立ち並ぶ場所で、敷地はもともと豊かな森林だったのですが、企業用地として土地開発され、樹木はほぼ伐採されていて。北側に傾斜するなだらかな形状で、樹木が伐採されたために土地は乾燥しきっていました。
立野
日本の土壌とは、もちろん条件が違うでしょうね。
芦澤
はい。その土地で建築をつくることによって、乾燥した大地に雨水を浸透させ、時間をかけて森林を再生させることを狙いました。建築は敷地全体に広がる木の枝の様なフラクタルな平面形状を描き、地形の高低差に沿わせて、建築のレベルも変化していきます。屋根に降り注ぐ雨水が敷地全体へと、また地中深くの帯水層へと浸透していく役割を果たすのです。
立野
ただ美しい建築物を作るのではなく、森林を再生する狙いがあるとは。素晴らしいプロジェクトですね。
芦澤
均質な環境を求めることではなく、地形の変化に合わせてムラのある環境を目指しました。特に風に関しては、微気候を生みだし、そよぐ風を空間内の所々で感じることができる計画です。
立野
そのような計画にしようと考えたキッカケがあったのでしょうか?
芦澤
ネイティブアメリカンの人たちの考え方で学びになったことがあるのですが、彼らは7世代先のために今、自分たちが何ができるかを考えているんです。7世代先とは約200年後のことなのですが、未来に想いを馳せて自然環境を守ったり循環させたりしている。彼らの考えは文明の持続可能な方法であり、知恵でもあります。この意志を継承した今回の計画によって、この大地を再生させたいと考えました。
立野
それは壮大な考えですね。やはり、生きている今の瞬間だけではなく、先の世代まで考えることは建築業界には常に求められていることです。我々がつくっている金物も長く使っていただきたいと思いますし、そのためには品質の良い製品をつくり続けなければなりません。長く使っている間も、メンテナンスをして使い続けられるとか、そういったサスティナブルな考えを持ってこれからはやっていかないといませんね。
芦澤
同感です。
立野
いやはや、ペンシルバニアの先生の作品、実際に見てみたいものです。
芦澤
是非お願いします。ペンシルバニアなので少し遠いですが(笑)。
立野
先生は金物に興味はお持ちですか。
芦澤
もちろんです。金物は建築空間をつくる要素の一部ですから、素材やデザイン、プロジェクトごとにどのようなものが合うかを考えます。大体絞られてはくるのですが。
立野
先生自身、お気に入りのものがあるでしょうからね。
芦澤
ありますね。ユニオンさんには自分でデザインした多くの特注取手をつくっていただきました。
立野
我々も金物を扱ってから長いのですが、初めはオーダーを受けて製品をつくることが基本的な姿勢で、既製品というものが少なかった。オーダーを受けて金物をつくり、既製品というものが徐々に増えてきたわけです。
芦澤
まだ定番と呼べる形の金物が、確立されてなかったのかもしれませんね。
立野
オーダーと一口に言っても、凝ったデザインのものをつくるだけではありません。当時、まだ使われていなかった素材を採用したり、異素材を組み合わせたものなど、無理難題とも言えるさまざまなオーダーがありました。しかし、このような難しいオーダーがあったからこそ、今のユニオンの技術がありますから、挑戦することが成長につながると感じます。今はどんな建築にも同じような金物が付属していますが、どこか味気ない印象を受けてしまうことも少なくありません。これからも新しいものをつくっていきたいという想いがありますから、建築家の先生や職人さんとも話し合って製品を世の中に生み出していきたいですね。
芦澤
そういったコミュニケーションの中で面白いものが生まれますからね。
立野
本当に。建築家の先生が金物を選ぶ場合とゼネコンさんが金物を選ぶ場合があります。昔はやはり前者のケースが多かった。オーダーであれ既製品であれ、我々の製品を使っていただくことは嬉しいのですがね。
芦澤
私も何度かユニオンさんの金物を使わせていただいたことがあります。
立野
ありがとうございます。先生の皆さんに採用してもらえて光栄です。こうして使い続けてもらえるうちは手放しに喜べますが、過去から現在の時流を読むと、このままでは陳腐なものになっていってしまうのではないかと懸念しています。
芦澤
と言いますと?
立野
最近の建築物を見ると、シンプルなものが増えてきています。いろんな建築物が落ち着いてきてしまった。日本もスクラップ&ビルドで、どんどん簡素な建築が増えてきていますから、このままだと日本の街も味気なくなってしまうのではないかと思うのです。
芦澤
確かにそうですね。
立野
建築にはもっと人を惹きつける力があるはずです。良い建築物が街にできれば人を呼び込むこともできますし、その町の財産になると思いますから。なので芦澤先生をはじめ、若い建築家の先生が活躍できる日本社会になっていけばと願っています。
芦澤
海外も面白い建築が生まれてこない兆候を懸念して、さまざまな取り組みが行われているようですが、実現できないことも多いみたいですね。
立野
昔のニューヨークには感動する建物がたくさんありました。今は昔と比べて大きく技術が発展していますから、日本も感動的な建築物を将来的につくっていただきたい。ただ、技術が発展しているからこそ、短期間で建築物ができてしまいます。もちろん良いことではあるのですが、建設期間も楽しんでもらえる工夫などがあれば面白いかもしれませんね。
芦澤
確かにそうですね。
立野
先生は今もプロジェクトを進めておられるでしょうし、これからも素晴らしい作品を残していかれることを期待しています。金物も必要でしょうからぜひ私たちに声をかけてください。尽力します。
芦澤
ありがとうございます。
芦澤
コロナが流行する前は、都市部や郊外に住んで、会社へ出勤して働くという生活でした。今では在宅の時間が増えて、結果的に精神を病んでしまうということが起きています。一方で地方は、建物の密度が低く自然環境が豊かで緑が多い。ワーケーションなど、地方を活用する流れもコロナ禍で加速しつつあるので、今一度、日本全国の地域を見つめ直していくべきだと思います。
立野
今はテレワークに取り組んでいる企業も多いですが、会社に出社することによって生ま れるものもありますよね。コロナ禍を生きてきた今だからこそ、人との繋がりが求められているように感じることもあります。先生は地域を見直す活動をされていると思いますが、具体的にどのようなことを?
芦澤
私は大学の活動で、過疎化した集落や廃村になった集落を学生と研究しており、その土地を再生できないかをここ数年考えていて。今は彦根市にある廃村集落、男鬼村の再構築を研究室の学生と行なっています。
立野
先生は大学で教授もされていましたね。学生さんも座学だけでなくフィールドワークから得られるものが多くあると想像します。
芦澤
もう一つ継続的に行っているフィールドワークがありまして。『沖島RYUBOKUHUTプロジェクト』を琵琶湖に浮かぶ離島の沖島町で行っています。処理などが課題となっている流木を建築構造材として、島の憩いの場所となる休憩所を建設するプロジェクトです。流木が漂着したその場所で流木を資源化し利用することで、地域内における資源循環を促すことを目標としています。
立野
興味深いですね。我々がミラノサローネで展示会をした際、鋳物をつくるところを演じました。現地でも話題になり5万人以上の方に来場いただきました。
芦澤
5万人もですか。すごいですね。
立野
会場に入ってくるまでに今まで制作した代表的なドアハンドルのコレクションや型枠、それに加えて鋳物を吹いた状態のものなどを最初に見てもらって、次に先ほど申し上げた、鋳物を実際に演じました。モノづくりの工程を見せることで多くの人に喜んでいただいたのです。だから、ものづくりの工程を体験できた学生さんは学びになったでしょうし、とても喜ばれたでしょうね。
芦澤
インターネットや机上で教えられることと、現場に行ってものを触りながら一緒に考えたりすることは全然違うことですからね。もちろん両方必要だと思っています。
立野
そうですよね。流木のプロジェクトは建築の流れを学びながら、サスティナブルな感覚や意識を身につけることができる、素晴らしい教育活動だと思います。
芦澤
ありがとうございます。流木は個体差がありますから、構造体の一部が壊れてしまう可能性もあります。今後も試行錯誤をしながら最適な構造体にしていく予定です。進化する未完の建築として島人や来訪者に愛し続けてもらえることを願っております。
(終了のお知らせ)
一同
ありがとうございました。
Planning:宮本 尚幸
Photography:北浦 佳祐
Writing:太洞 郁哉
Web Direction : 貴嶋 凌