立野純三(たての・じゅんぞう)
株式会社ユニオン代表取締役社長
1947年生まれ。1970年 甲南大学法学部卒業。1970年 青木建設入社、
1973年(株)ユニオン入社。1990年同社代表取締役社長。その他公職として、
公益財団法人ユニオン造形文化財団 理事長、公益財団法人 大阪産業局理事長、
大阪商工会議所 副会頭等を務める。
藤本壮介(ふじもと・そうすけ)
1971年北海道生まれ。東京大学工学部建築学科卒業。2000年藤本壮介建築設計事務所設立。
2012年ヴェネチア・ビエンナーレ第13回国際建築展金獅子賞、日本建築大賞など多数受賞。
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立野
先生はかつてどんな少年だったのでしょうか?
藤本
子どもの頃からものを作ることは好きでした。その時はもちろん建築というものなんてほとんど知らなかったですし、興味もなかったんです。
立野
確か、北海道出身ですよね?
藤本
そうです。田舎だったので雑木林など、自然の中で遊ぶこともありました。
立野
子どもはわんぱくなものですからねぇ。建築との出会いはいつだったのでしょう?
藤本
僕が初めて建築に出会ったのは、中学2年生の頃。父親がアートの本を多く持っていて、その中の1冊にスペインの建築家、アントニオ・ガウディ著の書籍があったんです。それを読んだとき、今まで建物に対してクリエイティビティを感じたことは無かったんですが、建築にも創造の楽しさがあるのだと初めて気づいたという記憶はありますね。
立野
そこで、建築家を志したと。
藤本
いえ、その時は「建築家になるぞ!」という想いはなく、ただものを作るのが好きで、そして同時に外で遊ぶことが好きなただの少年でしたね(笑)。
立野
(笑)。では、後になって本格的に建築に対して興味を持ち始めたということでしょうか?高校生の頃とか。
藤本
僕が高校生の頃は物理学に興味を持っていました。アインシュタインが書いた一般向けの物理学の本も父親の本棚にあって、読んでみてこれまた面白いなと思ったんです。今まで常識だと思われていたものを疑って、その先に新しい視点をみつけて理論を作っていく。その姿勢がかっこいいなと思ったんですよね。ニュートンにしてもアインシュタインにしても、新しい概念で世界を説明しようと試行錯誤していたじゃないですか。そういうスタイルに魅了されて、ますますのめりこんでいったんです。
立野
なるほど。当時は、フィジカルでものを作るというよりは、頭で考えて作ることに興味があったのですね。
藤本
そうですね。そのため、大学受験の際も東大の理Ⅰという割とふわっとした学科に入って、物理や数学、建築や理工学系をまんべんなく学びました。
立野
ほう。東大ですか。では高校生の頃の成績は言わずもがなですね。
藤本
旭川一番の進学校に通っていて、理系の中ではトップレベルでした。ただ、東大には全国からそういった人が集まっていて、太刀打ちできませんでしたね。それまで勉強で全く分からないなんてことはなかったんですよ。たとえ内容が難しくても仕組みは理解できるし、慣れればできるようになるといった感じだったんですが、初めて東大の物理の授業を聞いたとき「これが分からないってことか!」と思い、清々しく諦めたんです。これは無理だ、みたいな(笑)。
立野
初めて味わった挫折ですね。
藤本
うーん…。挫折というよりかは、分からなさすぎてすんなりと諦めることができたので、気が楽にはなりましたね(笑)。
立野
なるほど(笑)。では、先生が建築の世界に飛び込むきっかけは何だったのでしょうか?
藤本
大学2年生の半ばで進路を決めなくてはいけないときに、ものを作ることが好きだったこともありましたから、なんとなく建築を選んだんです。特に工学がやりたいといったこともなかったですし。そのようにして、ふわふわっと建築の世界に入っていきました。当時は安藤さん(安藤忠雄氏)の名前も知らなかったですし、有名な建築家は昔父親の本棚から拝借して読んだアントニオ・ガウディしか知らなかった。丹下健三さんの名前やル・コルビュジエの名前も知らなくて。もっと勉強してから入ればよかったのですが、あまりそういうことを深く考えず足を踏み入れたんですよ。
ただ入ってみたら、すぐコルビュジエとかルートヴィヒ・ミース・ファン・デル・ローエとか、そういった巨匠から授業がスタートしたので「おおっ!こんな建築を手掛けるやつがいたのか!」と、すごく盛り上がったことを覚えていますね。
立野
コルビュジエやミースも先生がお好きなアインシュタインと同じ時代を生きている人物ではないですか?
藤本
そうなんですよ!アインシュタインはちょうど20世紀の初頭でピカソとかいわゆる芸術運動となぜか同じタイミングで新しい理論を考え出していたんです。建築についてまったく僕は詳しくなかったのですが、コルビュジエとかミースとかバウハウスとか、ああいうのが同じように出てきたということをそこで知って、革新的なことを考えたアインシュタインと彼らは同じなんだ!と思って、あの頃のわくわくが戻ってきたんですよね。
立野
それが建築家を志すきっかけだったと。
藤本
はい。当時僕はたまたまいろんなものを作っていたんですがその評判も良かったんです。なので、「結構才能があるんじゃないか?」と思い始めて、建築家の道へ進んだんですね。
立野
そこから時を経て、建築事務所に就職をしたんでしょうか?
藤本
いえ、就職活動はしていないんです。ちなみに大学院にも行っていません。
立野
えっ!いきなり独立したんですか?
藤本
そうです。
立野
へぇ~、珍しいケースですね。
藤本
当時は珍しかったでしょうね。最近は割といろいろな生き方があるので、許容されているように感じます。
立野
そうですね。とはいえ今もマジョリティではないですよね。なぜそういう運びになったのでしょうか?
藤本
僕は2年生の半ばから建築を始めたので、実は2年半くらいしか建築を学んでいなかったのです。4年生の夏くらいに就職先や将来をどうするかを考えなくてはいけなくなったのですが、なんにせよ約2年半しか勉強していないので、自分はまだ何もやっていないよなという感じだったんですよね。大学院に行くことも検討しましたが当時、東大の大学院は研究傾向で、ものをばりばり作るという感じではなかったので苦手意識があったんです。
立野
それは先生にフィットしない環境かもしれませんね。しかし、他の大学院に進むという選択肢もあったのではないですか?
藤本
他大学の院や海外へ行くことも考えればよかったのですが、当時そこまで自分に自信がなかったんですよ。先ほども申し上げた通り、僕は建築の才能をそこそこ持ち合わせているとは思っていたのですが、いきなり世の中に出して高評価を頂けるようなものではないと自覚はしていたんです。
立野
建築業界は敷居が高いですからねぇ。就職活動はなぜされなかったのですか?
藤本
建築事務所に就職するにしても、ポートフォリオが必要になるじゃないですか。「これは見せられない」「これは恥ずかしい」「あんまりだと言われたらショックだし…」なんてことを考えていたらどうしていいか分からなくなってしまったんです。
立野
なるほど。他に考えられる建築家への道としては有名な建築家のもとへ弟子入りをするなどでしょうかね。
藤本
そうでしょうね。でも、僕は結構影響を受けやすい性格なので、いわゆる巨匠のところに行くというのは、もろに影響を受けて吹き飛ばされちゃうんじゃないかという無駄な心配も当時はしていたんですよ。結局いろいろなことにビビッていて、一歩が踏み出せなかったんです。
立野
思慮深い方だったのですね(笑)。
藤本
そうですね(笑)。そうして、何もしないでいると時間が経って卒業して、じゃあしばらく自分でなんとかするかと思ったんです。でも、先ほど申し上げた通り2年半しか建築の勉強をしていなかったので、まだ核となるような建築に対する考え方が自分の中でないことに気が付きました。それを静かな環境の中で少し考えたいなと思ったんですね。まぁ、「ちょっと静かにさせてください」と、言うつもりだったんです。なので、「自分の事務所を立ち上げてやるぞ!」というよりは、「ひとりになっていろいろ考えたい」という気持ちだったんです。
立野
ほう。ひとりで過ごされた時期は充実したものだったのでしょうか?
藤本
僕としてはひとりでいることが結構楽しくて、ちょっとしたことでも考えつくと、「もしかしてこれはすごいことなんじゃないか」みたいな感じで楽しく7~8年過ごしました。
立野
8年も!長いですね。
藤本
そうですね。その時にいろいろ考えたことが、結果的には今やっていることに繋がっていることもあります。
当然、時間が有り余っていたので、いろんなことを試してほとんどが役には立たなかったのですが、その中で自分なりの建築観を培っていけた時期だったと思います。
立野
先生にとっては重要な時期だったのですね。その8年の間にひとりで考えたことを伝える相手はいましたか?
藤本
はい。ひとつはアイデアコンペみたいなものに応募していて、たまにたくさん出す中で1割くらい入選するものがあったんです。僕の性格的に、落選が多くても入選があれば「よし評価された!」と思っていましたが、逆に落選したら「まあいいや」みたいな感じだったんです。なので、評価される・されないのつらさはありませんでしたね。
立野
無駄に落ち込んだりはしない、と。同志と呼べる人とは出会いましたか?
藤本
今、建築家で活躍されている同い年で京大出身の平田くん(平田晃久氏)とたまたま知り合って、飲んだり事務所を行き来したりしていて、それが僕にとっては結構大きかったんです。同年代でお互いまだ特に何かを成し遂げたわけではないけど、「何かやったるぜ!」みたいな意気込みはあったんです。当時、平田くんは伊東さんのところ(伊東事務所)で、ある意味当時の最先端のところにいましたから、いろんな情報や建築に対する考え方とかも知れましたし、途中から平田くんはその伊東事務所を牽引する立場になっていたんです。そこでやっている最先端なことと自分がやっていることを見せ合いながら、ああでもない、こうでもないと話し合っていました。
立野
結果的には自分の思考を育てるという意味では、すごく大きな影響を先生にもたらしたのですね。
藤本
はい。大勢の人と同時にコミュニケーションをとることが当時の自分にはできなくて、信頼できる少数の人とじっくり話しながら自分のペースでものを考えられたことは大きかったんです。
立野
なるほど。その頃の伊東事務所は仙台の案件を進めていた時期ですか?
藤本
ちょうどその頃ですね。仙台のコンペ案を見て、平田くんが伊東事務所に行きたいって思ったみたいですよ。
立野
そうなのですね。その当時は伊東先生の事務所に有名な方が多く在籍されていたのではないですか?
藤本
僕はシャイでしたから、伊東事務所に行ってもいろんな人とわーっとやる感じではなくて、平田くんともう一人、伊東事務所にいた同期と3人でよく飲みに行っていたんです。そのときは自宅で作業していました。その後、2000年くらいから自分の事務所を借りて仕事を始めて、その頃から平田くんがたまに事務所に来るなど交流がありましたね。
立野
建築の教育に関して考えられていることはありますか?
藤本
教育は大事だなと思いつつ、自分が受けた教育の何が良くて何が悪かったかは分からないですね。
立野
ほう。先生は当時どういった環境で建築を学ばれていたのですか?
藤本
僕らのときはあまりスターアーキテクトなどを呼んでくる感じではなくて、安藤さん(安藤忠雄氏)が教壇に立つようになってから東大もすごい建築家を呼んできたりするようになりましたね。当時は香山先生と大野先生(藤本氏は大野先生の研究室)で、もっとほんわかした環境でした。
立野
たくさんの人とコミュニケーションをとることが苦手だったという先生にとっては、その環境が良かったのでしょうね。自分のペースで進められるような環境といいますか。
藤本
そうなんですよ。ただ、大野さんは放置プレイが過ぎていて、最初は嫌われているのかなとか、どう理解していいのか分からなかったんです。反対に若い助手さんが熱心に僕らをケアしてくれていて、そのバランスが良かったのかもしれないですね。
立野
そういう話を聞くとやはり教育は難しいものだと感じます。
藤本
そうですよね。僕自身も非常勤とか1学期間だけスタジオ課題を教えるとかをお願いされるんですが、どうしていいやら(笑)。僕は面白いアイデアがあったら、すぐにこれでやろう!などと盛り上がるんですけど、学生は複雑に考えるから、最終的に違う案にしたりして、それが大した案じゃなかった時はいらいらしたりして。
立野
まぁまぁ、学生さんですから(笑)。
藤本
だけど、本人たちからしてみれば迷ったり考えたりするプロセスが大事なわけで。僕もその大切さは分かっていますから。
立野
思考を育てるには必要な時間ですよね。そういえば、教育の面では英語が大切などと聞くことがありますが、先生が海外に行かれなかったのはどうしてですか?
藤本
単純にビビリで、何に対してもなかなか踏み込めなかったんです。海外に行かなきゃいけないのかなと思ってはいたんですが、当時英語が全く話せなかったので、無理だと高を括っていました。分からないまま行ってみる、といった考えも全くなかったんですよ。
立野
でも現在は堪能でいらっしゃいますよね。英語はいつから話せるようになったのですか?
藤本
ここ10年くらいでしょうか。2005年くらいから海外のレクチャーに呼ばれるようになり、その時は英語で原稿を書いて読んでいました。
原稿を何度も読んでいるうちに覚えてきて。それから、ある時期に新しいプロジェクトを見せたいと思ったのですが、原稿を書くのが面倒くさくなったんです。そこで、前半原稿ありで後半なしで行ってみたらなんとかなりまして。原稿がない方がリアクションは良いように感じたこともあり、レクチャーに原稿がなくてもいいやと思い始めたんですね。それが2006~2008年くらい。
それから海外のメディアのインタビューや海外のスタッフも増えてきて、日本にいても英語で話す機会が増え、英語が話せるようになりましたね。
立野
はぁ~、なるようになるものですねぇ。先生のパリ事務所に所属している方はほとんど日本人ではないですよね?
藤本
そうですね。事務所にはフランス人や中国人、スペイン人が多く、ネイティブな英語を使う人がいないので、みんな適当な英語を話しますよ
立野
先生は単語力をもともとお持ちですもんね。
藤本
そうですね。唯一受験勉強で役に立ったのが英単語ですかね。「出る単」的なものにそこそこ使える単語が入っていたなと思います。だけど、僕の英語のレクチャーなどを聞いてもらえれば分かるはずですが、めちゃくちゃ簡単な英語しか使っていないんですよ。それが分かりやすいということでみんな喜んでくれるんです。ネイティブじゃない人は難しい言葉が分からないから、僕の英語は分かりやすいみたいですね。
文法の構造もすごく簡単なものですし。2005~2006年くらいに海外のレクチャーに行ったとき、西沢さん(西沢立衛氏)の英語がThis is~みたいにすごくシンプルですごく分かりやすく「これでいいんだ!」と、英語に対しての垣根が低くなったんですよね。
立野
ほう。先生の話を伺っていると心配性だったり、消極的な部分がある反面、これでいいのだと思えると一気に跳ねるような印象がありますね。
藤本
でも最近は心配性とか言っていられないので、昔と比べてもうちょっとラフな性格になったなと感じますよ(笑)。
立野
フランス語は話せますか?
藤本
フランス語はだめなんです。ボンジュールくらいで。
立野
そうなのですか。現在フランスに事務所があると思うのですが、フランス語が話せないと困ることはないですか?
藤本
フランス語は逆に分からない方が気楽ですね。フランス語でうちのスタッフとかクライアントが議論していますが、なんだかややこしそうですし(笑)。
立野
(笑)。
藤本
僕はフランス語が分からないと思われているから蚊帳の外にしてくれるので楽です。会話がそこそこ終わったくらいに、どうなの?と聞けますからね。
立野
確かに、要点だけを聞けて良いかもしれないですね。フランスの建築家の若手事情はどんな感じですか?
藤本
実は厳密にはよく分からなくて、若手といっても僕が名前を知っている連中は30代後半くらいなんです。コンペがたくさんあるので何人か知ってはいるのですが、とてつもなく尖っている人はあんまりいない印象です。
立野
それは意外ですね。いつもどなたと一緒にお仕事をされているのですか?
藤本
僕がいつも一緒にやっているのはニコラ・レネールという世渡り上手な人と、オクソルとマナルっていうモロッコ出身の2人。こちらはアーティスト肌でキャラは違うのですが仲は良いですよ。
立野
個性的な仲間がたくさんいらっしゃるんですね。
藤本
はい。フランスはコンペが多いですから彼らは状況にうまく適応していて、あまり前提をひっくり返すみたいなことをやる習慣がないんです。
立野
そこは日本とは違う点ですよね。
藤本
そうですね。でも若い人にチャンスが多く与えられています。この間パリ唯一の高層ビルであるモンパルナスタワーの改装計画があって、結局勝ったのはフランスの若手でした。彼らはわりと有名ですがね。
立野
良い環境ですね。藤本事務所のパリ事務所に入ってくる現地のスタッフの雰囲気も良いですか?
藤本
うちはできるだけ他で経験を積んだ人が欲しいと思っているので、別の事務所から引き抜いてきたりしています。また、パリの事務所も現地の人だけではないのでインターナショナルな感じです。なので、学生から建築業界にどう入ってくるのかという事情はよく分からないんですよね。
立野
そうなのですね。フランスは組織事務所が少ないイメージですがそこはいかがですか?
藤本
確かにアーキテクチャースタジオとかは大きいですが、日本ほどではないと思います。パリはインディペンデントな建築家が生き残れるようなシステムでゼネコンがないし、コンペも若い人をセレクトして競わせるような仕組みがありますからね。ディベロッパーもコンペを組まないといけない規模のときは、若手にがんがん声をかけている印象です。ディベロッパーに自分を売り込む建築家も多いですよ。
立野
そういった部分はかなり先進的なのですね。ところで、日本ではよく建築家には社会性が欠けているなどと言われていますが、その声に対してはどういった印象をお持ちですか?
藤本
そうですね、例えばアトリエ事務所で3人ぐらいでやっているような状況だと、住宅のクライアントとしか関わらないといったようなことにもなります。向こうは住宅があまりないため、いきなりハウジング担当とかになってきたら何がしか社会的なシステムの中に自分を投入していかなくてはならないですから、社会性は身につくと僕は思います。
立野
なるほど。
藤本
ただ、さっき言ったようにそのシステムの上に乗っている自分を客観視して、システム全体を揺さぶるような視点でものを作るのは大変そうに感じますね。
立野
日本人はそういった部分に期待されているのかもしれませんね。先生は今後、パリ以外に事務所を考えられているところはありますか?
藤本
う~ん…。事務所を作るのはちょっと厳しいかと。仕事があればいいんですが、なかなか…。
中国は日本からハンドリングできるけど、アメリカは仕事が少ないですし難しいですね。
立野
現在の仕事の割合は、海外のほうが多いですか?
藤本
海外が多いです。日本も減り続けているわけではなく、ちょいちょいあります。ただ、海外の方が国は多いですから。国別だとフランスが一番で次が中国。あとはだいたい1カ国につき1~2件のプロジェクトといったところでしょうか。
立野
ミラノサローネでのCOSのお話をお聞かせいただけますか。
藤本
彼らはファッションブランドということを気にせずにやっていいよと言っていたのですが、やっぱり僕は建築家なのでCOSというファッションブランドと建築家のコラボレーション空間といったところをなんとかしたいなと思っていました。最初はランウェイをもっと立体化したみたいなものを作れないかと提案していたんです。ですが全然コストが合わないということになって、コスト的に物理的なものを作れないとなった時に、「じゃあ光だけでいいか」という話になり、スポットライトのような光のコーンの中に入ることによってスペシャルな瞬間になるものを提案しました。
立野
なるほど。具体的にはどういった制作意図があったのでしょう?
藤本
「光の森」というタイトルでもともと映画館だった天井の高い空間に光で森のような空間を作り、そこに人が入ることでセンサリングしてわっと光が強くなり、その後弱くなるようなシンプルなアルゴリズムを設定したんです。そうすると、人がうろうろすると光がうにょうにょ動く。ただ入ったところだけが動くと単純になるので、センサリングした時にここ以外にもうひとつ光が動いたり、誰もいないときにランダムに動きが出るようにプログラミングして、複雑な動きになるようにしたんです。会場に浅めのスモークを焚いて、ちゃんとコーン状に光が出るようにしたのですが、それがサローネ内ですごく盛り上がったんです。
立野
私も拝見しましたが周りをミラーにしたことで、大きい空間がさらに無限に繋がっているように見え、インタラクティブな空間をさまよい続けられるという不思議な空間でしたね。
藤本
そうなんです。ただ、だんだん人が増えてくるとそこに座ってしまう人もいて、はじめて見たときはあれ?と思いました。ひたすら森の中でみんながぼーっとして光の変容を見ているという光景に驚きましたね。
立野
座り込むことは意図していなかったのですか?
藤本
椅子には座ってほしいなと思っていました。多少は滞在して欲しかったので。でも床に座るとは思っていませんでしたから「なんじゃこりゃ」とは思いましたね。
立野
違うインタラクティブが生まれたわけですね。
藤本
そうですね。みんな気持ち良すぎて、座ったりごろごろ寝たりしていましたよ。最終的にそこに行列ができて入場制限もかかったんです。なかなか変な空間でしたね。
立野
ユニオンは金物メーカーですが、そういったプロダクトについて建築側からどういった印象がありますか。
藤本
普通と言えるようなスタンダードが付いていれば良いという想いはありますが「スタンダードって何?」と、聞かれたときはすごく難しいですね。じゃあ自分でそのスタンダードを極められるかと言われたらできない気もしますし。変なものが付いていても気持ち悪いですしね。
立野
先生の建築は、部分だけ見るとスタンダードだけど、いろいろ集まって建築総体として見ると何かしらの特別感が出ているというようなものの気がするんです。
藤本
ありがとうございます。ですが、家具や照明器具、レバーハンドルにしても割と自分ではよく分からないので選んでもらうのは好きですね。
立野
先生は普通のものがお好きなのですね。
藤本
そういうことです。しかし、建築は普通とはいえ状況が違いますから、その状況の中の価値みたいなものを突き詰めていくと結果的に変なものになっちゃうんですね。状況がユニークな分、ユニークなものができますから。
立野
つまり結局やっていることは同じでも、レバーハンドルなどといったプロダクトだったら当然使う人が違う中で、それをひとつのプロダクトにしなければならない普遍性みたいなものが見えてくるというわけですね。
藤本
プロダクトの場合だとそうですよね。一方で、建築の場合はグローバルに普遍的なものがないので、気候風土や文化背景なども含めて、その状況の中で新たな普遍性が生まれるんです。ただ、建築の個別の普遍性が他と全く相通じないかと言われるとそうでもなく、人間が住んだりコミュニケーションをとったり、小さな社会のひとつのモデルになっているのではないかと考えています。
立野
なるほど。そのモデルが違う状況だと、どういう風にトランスフォーメーションするのかというところが面白くて建築をやっているような部分が先生にはあるのではないですか?
藤本
ありますね。ですから、冒頭に申し上げたアインシュタインの理論はどこに行っても同じで、そういった普遍性にとてつもなく憧れるけれども、それを建築でやろうとすると逆に嘘になりますから。僕は物理学理論の普遍性は簡単に受け入れることができますが、建築の普遍性はインスピレーションとして全部出てくるような気がするんです。つまり建築ならではの個別の普遍性とその普遍性のレベルがあるような気がしていて、それは自分自身にとってもそうだし、同時代の人にとっても未来の人にとっても、そのインスピレーションが伝波していく普遍性かなと思っているんです。
立野
なるほど。その建築についての概念が年代や国籍を超えて通じたり、逆に自分が受け止められたと感じた瞬間はありますか?
藤本
実際は多分そのまま伝わっているわけではないと思いますが、最初に深く共感したのはコルビュジエの建物。大学4年生の時にマルセイユに建っているマンションを見に行った時に、本で見ている時は「なんだこれ」と、思っていたんですが、実物を見て驚愕しましたね。
幾何学的な秩序感とそこに収まらない躍動感みたいなものがばしっと重なっていて、こんなすごいものがあったのだと思ったんです。それは僕のその時のいろいろな状況が重なって、勝手にそう感じただけかもしれないですが、それはそれでいいかなと思っています。
立野
やはり、現物を見ると肌で感じるものがありますよね。
藤本
そうですよね。で、その後はいろんな国のいろんな建物を見て、その時々で自分なりの発見をしてきました。ローマの遺跡にせよ、「これはこういうものだよね」というところにプラスアルファをして「こういうことでもあるのではないか」と考えていたんです。
立野
それは、建築の普遍性を発見するといったことでしょうか?
藤本
というよりはもはや、普遍性というかこういう風にも解釈できるのではないか、こういう風なものが隠されていたのではないか、誰も今まで気が付かなかったけど。みたいに勝手な意味を再構築して、建築の可能性や広がりを未来に受け渡していくようなイメージですかね。
立野
ほう。
藤本
ひとつの理論で説明するのではなく、無限に増幅し得るイメージを自分もひとつ増幅させて、また未来の人に増幅を任せるみたいなそういう感覚になってきたんですよ。なんでもありとも言えるかもしれませんが、でもそうではないところが面白いですね。「やっぱり、なるほど」みたいな部分と「それは無理やりじゃないか」という部分があるので。
立野
では構成するエレメントに関してはシンプルな飾らないものを、という感じですか。
藤本
そこは僕の認識が追い付いていないだけかなと思います。そこに強い信念があるわけではなくて、なんかまだまだだなという思いがあるんです。ただ、ドアハンドルなどの取手は特にとてつもなく普遍的で機能も物もシンプル。だけれども人間の身体的な動作にかなり依存しているから、置かれている状況もとてつもなく明快でシンプル。なのに奥深い。そうなってくると、もうどうこうできるものではないなと思いますね。
立野
本当にひとつのレバーハンドル、あるいは5つくらいのレバーハンドルみたいな物がすべてだというくらいの究極さがありそうな予感がするのですが。
藤本
確かにそうかもしれませんね。もしかしたらその5つのレバーハンドルは、世界数億人にとっての無数になるかもしれないわけで。だからこうして輸入されたりバリエーションがあるというのが、ある種の普遍性だと思うんです。
立野
ひとつの正解を求めているわけではないのですね。
藤本
そうです。今ない新しい視点によってすべての説明がつくようなわくわく感が僕は好きなんですよ。ただ、それがファイナルアンサーである必要はなく、またひとつ理論が出てきたときに、次の理論によってそれがまた塗り替えられると、すでに予感されている状態が面白いのだと思います。
(終了のお知らせ)
一同
ありがとうございました。
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